(今日の伝言)

すべての終末を伝える脅威は共通である

多くの宗教が世界の終わりを予言しているように、仏教でも

世界の終わりについて「月蔵経」という経典がそれを伝える。

釈迦が恐れた末法は、冷酷で非情の世界である。


「人々が悲しみの心をなくしてしまい、絶えず争いが起こりやすくなり、

その後は深刻な食料危機におちいり、奇病が発生し人々は苦しみ

続けるのである」


さらに大地には、異常気象・大地震・干ばつ・大雨・洪水と

いった天変地異が襲いかかり、終末には上空で大きな音が鳴り

響き、凄まじい火の手があがるという意味が記されている。

解釈では、核戦争による世界の終わりを伝えるという者もあるが、

それの真相を見ると、聖書とコーランの意味を照らせば、地軸が激動

するポールシフトの後の巨大な火山の爆発であると断定できる。

この滅亡の危機に、弥勒菩薩が現れ、手を差し伸べるとも言われている。

仏教では弥勒菩薩がそれであり、聖書ではキリストが来ることになる。

要するに救世主が来るのだが、この時の生き残る人々においてはごくわずかと記されているのも現実である。

聖書に記された意味においてはその言葉を語るのだが、(文章で見せる意味である。)

その意味を信じないがために、生き残る者はごく少数である。


(その生き残るための予防接種)

その生き残るときに、例えば動物であれば、奇病を患うとする。

犬が狂犬病なら、予防接種である。

人々もこれに生き残る予防接種の意味が聖書にある神の律法なのである。

処方箋をもらって神の律法を守るのではなく、自ら率先し守ることが大切であると言える。

これがこの世から断たれるという掟から守られる意味を持つ。

その予防接種である神の掟を守らないと、神がいわれることはまずその意味においては助かることはない。

その言葉が克明に記されている。

結局は、その意味を理解するか、しないかの違いである。

記された意味はほとんど解読等を終えて、その起きるべき出来事は最終局面に突入していること。

しかし人々は、この意味をごくわずかの人々がそれを見て知りえるだけで、その内容をほとんどが信じていない。

なぜか、その意味を信じる意味には隠された意味があり、生きるべき約束をされた選民でないとわかりずらい。

その意味を信じて集う者らが、その隠されている空間に集まっているのである。


(神は聖書でこう記している)

※まず、偽りの筆が真実を曲げてしまったこと。

この正誤も見分ける仕事があったのが事実がある。

その意味は以前伝えているが、ほとんどの人々がわかっていない。

克明に聖書の中で、その偽りの筆を証明する言葉があるからである。

この意味においては意外と気がつきにくい。

ここからは本題である。

もしあなた方の周りにその記された聖書の病になる意味がその一つとして、克明に記されている。

記されている事実においては、これから免れる方法が神の定めた正しい食事の規定だとすれば、それを守らないのは愚かだとわたしは言いたい。

たとえば癌になり、必ず人は死を考え畏れるはずである。

また心臓病になり、命に脅威を覚えることもしばしば…。

それから救われるヒントが神の掟にある食事だとすれば、わたしであれば徹底して守るようにするのは当然だと思うようになった。

神は聖書の中で、その掟を守る者には打撃がないと約束をされていることである。

重要な言葉があるのだが、それの真意を人は悟らない。

11:27だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。 

11:28だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。 

11:29のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。 

※かつて私は35年前に主に出会い、病の宣告を受けて、その試練に耐えられるかと問われた。

もし、その出会いの意味をおろそかにして、その意味を知ろうと思わなければ、今になり、その言葉の重要性を知りえることはなかったと自戒する日々が続く。

かたくなに心を閉ざして、神の導きを無視していたら今のわたしはなく、記されている意味において、その身を滅ぼしていたと反省するのである。

その身を滅ぼすとは、己の浅はかさでわが身を死に追いやる愚かさである

その受けた罪を感じるので、「主のからだをわきまえないで」という意味合いを、その出会いの意味であると完全に理解した。

その意味において神は示すことにおいて偽りを言う方であろうか。

聖書の言葉の意味においても、コーランの意味においても、仏教の釈迦の言葉においてもすべてがその通りになっているならば、盲目であり、見たとしても理解することなく、考えない人間は「愚かである」とわたしは断言する。

もし、わたしが神に示された事実が、わたしの意味ではなく、誰かの物語だとしても教養を身につけているならば、それは理解できる枠以内にあるとわたしは思う。

その言葉の意味に隠された知恵の言葉が現実に存在するからである。

なぜならば、神は偽りを残す方ではない。

それを改ざんしても、それを見分けてすべてを証明するであろうと思う。

その意味が聖書の記されている事実なる部分である。

伝道の書でこう言われる。

3:11神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。

それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。 

※何を意味するか、考える時が来ている。

           
 イエスの証明に進むにはその部屋を見つける必要がある。